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2005年 11月 16日
たった3ヶ月前の蝉の声が、恋しいです。 ん? 近所なのに見覚えない風景だな。 と思ったら、フィルム裏向けですね。 OLYMPUS E-300 + ZD 50mm F2.0 Macro #
by hanikamibouya
| 2005-11-16 18:02
| E-300
2005年 11月 15日
大学院の友人が結婚します。
来年の4月1日、エイプリルフールに。 四月馬鹿をわざわざ選んで挙式だなんて、んん素敵ですね☆ 愛とか友情とか、"関係性"なんて、どこまでが本当でどこからが嘘なのか…そんなこと究極的にわからないんだから、それ自体を前向きに考えて、"害の無い嘘の関係”として夫婦関係を捉えたのだと思います。(嘘です。式場がその日しか開いてなかったらしい笑) 冠婚葬祭って、仏滅や大安はすごく意識するんだけど、実はアレだって、昔のカレンダー屋が売れ行きを良くするために、適当に割り振ったクジなんですよ。 つまり宗教的根拠は無いんですよね。 ---------------------------------------------------------------- Wikipediaより 元々は、1ヵ月30日を5つに分けて、それぞれの日を区別するための記号、すなわち、現在の七曜のような使い方がされていたと考えられている。14世紀の鎌倉時代末期から室町時代にかけて中国から日本に伝来した。その名称や解釈・順序も少しづつ変えられ、現在では赤口以外は全て名称が変わっている。19世紀初頭の文化年間に現在の形になった。 幕末ごろから民間の暦にひっそりと記載され始めた。それが、明治時代に入って、吉凶付きの暦注は迷信であるとして政府に禁止されたことが、逆に六曜の人気に拍車をかけることとなり、第二次世界大戦後の爆発的流行につながった。 ---------------------------------------------------------------- それじゃあ、エイプリルフールの由来って何だ?案外これも古いんですね。 ---------------------------------------------------------------- Wikipediaより その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが、1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、馬鹿騒ぎをするようになったのがエイプリルフールの始まりと言われている。 ---------------------------------------------------------------- 一見すると奇妙な風習・制度も、元を辿れば、当時の日常を支える時間の科学的尺度や文化的メトリックだったのです。その史的痕跡が現代では、非日常のシンボルとして息づいている…これってなかなか興味深い事ですね。 #
by hanikamibouya
| 2005-11-15 19:03
| 雑記
2005年 11月 13日
そう思うのは決まってこの季節です。 実は僕、いい年してチャリンコが主な移動手段なんです。運転免許はあるのですが…。「車はペーパーだけど、恋の運転はA級ライセンスなんだぜ(笑)」と運転席の女友達にとぼけてみたことがあります。竹馬の友、曰く「アラ、ソウナノ」とそっけない一言 。…今や僕の言動は、ユーモアとか悲哀とかそんなものではなく、端的に、むごたらしいようです。 ああ、秋風は枯葉を巻き上げ、チャリンコでさすらう僕の耳をいぢめます。 毎年のごとく、ふかふかのミミアテが欲しいぃ! でも恥ずかしいいぃぃ!! だからしゃぁない、ヘッドホンで代用するのです。そこで今回見つけたのがコレ。オーディオテクニカのヘッドホン。 本気過ぎないレトロデザインがよろしい。 意外と近未来デザインのiPodにも合いそうだね。 いや、作り手さんはそれを狙ってると思う。 http://www.audio-technica.co.jp/products/hp/ath-re3.html #
by hanikamibouya
| 2005-11-13 23:28
| 雑記
2005年 11月 10日
トヨタ・レクサスってさぁなんか胡散臭いんだよなー、と思うのは僕だけでしょうか。少なくとも左の金子さんはビミョーな感じですが…
ま、趣味の問題と言えばそれまでですけど。個人的見解としてマーケティング戦略論の大原則というのがあって、それは「企業はマーケティング論的に戦略を練れば練るほど、バカになる。MBAなんか行くな、ボケ。笑」ということです。最近で言えばソニーなんかがそう。5年前は業界から成功モデルとして、もてはやされていたけれど、今やダメダメモデルになっちゃった。iPodにも、負けた。 企業のマーケティングが、マーケティング論的になって商品が自己完結してくると、消費者的につまんなくなるんです。「マーケティングがマーケティング論的になる」とは、要するに勝手にニーズを決めつけて広告で自画自賛しまくるわけです。「これが次の流行です、トレンドなのです、やあ、すごいや!、ね?すごいでしょ?だからほれコレ買いなさい。あなた、コレ買わないと時代に乗り遅れるよ。エコ考えたらさ…うんぬん」と自分で自分を褒める。自己準拠的行為とか言うまでもなく、単純にイヤミなのです。 最近のウォークマンが胡散臭かったのは、そこに入れる曲まで、何だか指定されてるような気がするからだ。iPodはなんかコンセプトがユルイ感じで良い。何千曲も入れるのだから、本体は主張しない方が良いのだ。ちなみに友人は、iPodに「桂米朝」を入れている。満員電車で聴いてひとりニヤけているらしい。でもアリだと思う。これこそAppleのユルイがしかし的を得たマーケティング(「マーケティング論的」ではない)なのかもしれない。 ▼ あ。そおそお、レクサスの話だった。いや、だからね、ただでさえベタなトヨタがブランド戦略だと聞いてどうなのかなーと思ってたら、やっぱり下手な「マーケティング論的な」ことやってるから僕は苦笑を禁じ得ないわけです。 あのCM、ええ、好きですよ。「クラナド」のCDかっちゃったもの♪。So What? それが高級感なのだろうか?現物見に行ったらアメリカンじゃなくエスプレッソが出てくることがブランドなのかえ?営業スタッフを高級ホテルで研修させることが「おもてなし」だって〜? …ってゆーか、そんな裏方を「僕ら頑張ってます」みたいにテレビで見せちゃってる時点で、田舎くさいぞ。 だいたい「ベンツかなーBMかなー」言うてる中年相手に「おお、レクサスもアリかもね」と思わせる気あるのか?と言いたい。所得層うんぬん以前にオジサマのココロを掴んでいない。中年のオヤジの心理とは、会社の秘書とか家のバカ息子から、一目置かれたいんです、プチ・リスペクトされたいんですぅ!!。(まあ、そういう意味では、マークXのCM方がオヤジの妄想をうまく掴んでいる) だからもう一度言おう、あのCM、田舎臭い高級感っていうか、キザすぎてアホっていうか、実際のモノとしても、仮にウチのダメオヤジが乗っていたとしても「あの、お父様、今度の休日、お車お借りしてもよろしいでしょうか?」なぁんて全然思えないのである。ああトヨタよ、単純に若者が憧れるような車をセンスのいい大人が乗りこなす…そんなかつてのトヨタ車を作ってくれええええ。 これこそ、ベンツだBMだなんて言ってる空しいブランド趣味をけちらす、トヨタ・ブランドの王道ではなかったか? #
by hanikamibouya
| 2005-11-10 15:14
| 雑記
2005年 11月 09日
「形態は機能に従う」とは、カレラ911のデザイナー、F. A. ポルシェの言葉である。彼は1972年、ポルシェ・デザイン社を設立しており(自動車のポルシェとは特に資本関係は無いそうだ) 、現在では自動車のみに止まらず、遍くモノからその哲学を窺い知ることができる。
ところで、このメッセージは「機能→形態」の先行関係として理解されているようだ。作り手 はモノの諸機能を寄せ集めた結果、形態へと至る。ゆえに形態と機能の関係は主従関係としても理解される。 確かに"Follow"はそういう意味だから、文字通りの解釈としては問題はない。でも、ポルシェは単に形態に対する機能の優位性を説きたかったのだろうか?僕はそうは思わない。彼の意図は、形態と機能の単なる先行関係や主従関係を指摘することではなかった筈だ。もしそのように理解してしまうのなら、ベタな機能優位論しか帰結しないだろう。 ▼ ポルシェの冒頭のメッセージが何やら哲学めいているのは、彼の視線が形態と機能の関係そのものへ注がれているからに違いない。しかもそれは僕たちの思考(視考)をも巻き込む。 一般的に、僕らは「形態の良し悪し」を審美眼やセンスの問題として考えがちである。反対に、「機能の良し悪し」は客観的に測定できると思っている。そしてモノの制作者集団が直接扱えるのは機能であり形態は二次的な存在である、と把握しようとする。これは先の「機能が主で形態が従」として考えるのと同様である。しかし、僕はこの考え方に賛成しない。 例えば、自動車における「機能」とは何かを考えてみる。スピードだろうか?燃費だろうか?安全性だろうか?…スピードという機能の追求は燃費という機能を損なう。燃費という機能の追求はボディの軽量化を意味し事故時の安全性という機能を損なう…煎じ詰めれば「機能」もまた相対的なものでしかあり得ない。 もちろん、僕は「形態の方が主だ」とか「形態からのモノ作りもある」ということを主張したいのではない。事実、そういう二分法の転倒によるモノ(作り)は失敗することが多い。見るべきは、機能と形態の二分法は相対的なものでしかないこと、これである。そして、両者の危うい均衡はモノの使用者である僕に開かれているのだ。それはあらゆるモノにおいて潜在する。時にモノが「予想外のヒット」をしたり「希少価値」を持ったりする時、消費者のモノ解釈が顕現してくいるに過ぎない。モノはもっと日常的に使用者に開かれている。 さて、僕の文章はもはや混乱の様相を呈してきた。しかしながら、まさに僕の論がこのように拡散していく「かすみ」にこそ、デザインの核心がある。形態と機能はお互いがお互いの入れ子構造としてか理解できない。ポルシェはこの関係性を強調したかったのだと僕は思う。 機能と形態の二分法は徹底的に不可能である。にもかかわらず僕たちが何気なくモノを機能させ形態を見いだすのは、まさにこの不可能性故でもある。 "Form Follows Functions" −ここで言われる"Follow"はそれを読む僕たちの眼差しをも"Follow"させようとしているのだ。 ▼ 「機能美」という言葉があるけれど、「どこからどこまでが機能なのか?美なのか?」と問うことはナンセンスだろう。これと同様に「良いデザインとは何か?」といった類の論の建て方は、それ自体デザインが無いではないか。(素朴因果論的という意味で) いわんや、現在の家電メーカーにありがちな、ガワのデザイン/中身の機能という、形態と機能を分離独立させてモノ作りが貫徹可能とする企業戦略は、もはや論外と言わざるを得ない。携帯電話につきまとう普遍的なチャチさはここに起因していると思う。 僕にとって「デザインとは何であるか?」とか「デザインとは○○である」みたいな議論はつまらない。「〜であるか」「〜である」というのはデザインを静的に捉えるから。デザインは原初的に動的でしかあり得ない。企業の思惑とは裏腹に、僕が機能美を発見してしまう出来事がある。形態と機能の境界の不明瞭さはネガティブなことではなく、皮肉にも一介の使用者である僕によって、肯定的にデザインをして-デザインを発見しまう、という出来事へと開かれているのだ。その時、モノは形態であり、機能であり、そして僕の身体でもある。この三位は動的に共立している。 以上、デザインを巡る原初的構えをProto_Designと呼ぶことにしよう。美術コーナーに並ぶデザイン論の類は有名デザイナーが携わった工業デザインを「ああ良いデザインだ」とトートロジカルに愛でるばかり。或いは反動的に便器を芸術作品と言ってみるか?否、やはり退廃でしかないだろう。そこにはアイロニーが存在してもユーモアがない。そういう発想自体が、結局のところ権威主義的だと思う。 Proto_Designでは、なんでもないようなモノ・コトを、持続するシアワセとして(シアワセダッタという過去形ではなく)扱っていこうと思います。このブログはデザイン論ではなく、僕による僕論であり、ユーモア論でもあるのです。 #
by hanikamibouya
| 2005-11-09 23:12
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